ロボットになりたい
歩きながら考え事をしていると、建物の窓に映った自分を見てびっくりすることがあります。
特に抽象的な思考をしてたり、科学文明の行く末や、VR技術の面白い使い道を考えていたりすると衝撃が大きいです。なぜびっくりするのかというと、そういうことを考えているときは自分の性別と年齢、日本人であること、住んでいるところ、会社勤めをしていることなんか全部すっかり忘れているからです。
自分が見えないということ
私たちは普段、この体を通じてしか人とコミュニケーションを取ることはできません。自分の考えた言葉はこの声を通ってしか目の前の人に届かないし、笑顔もしかめっ面もこの顔でしか作ることはできない。ちょっとした仕草や歩き方を通じても、体は周りの人に色々な情報を伝え続けています。
しかしその情報を唯一受けとることが出来ない人がいます。それは私自身です。
みんなで集まって話しているときも、私の表情や仕草を私だけが見ることができない。私の声も顔も、生まれてから私が意識して作ってきたものではないし、本当は周りにどう聞こえ、見えているのかなんてわからない。自分の歩き方が他人からどう見えるのかなんて知らない。自分の性別や年を聞かれて間違えることなんて絶対にないけれど、常に意識し続けているわけでもない。みんなの眼には常に映っているのに、私だけがその事を忘れている。そうして男の人のグループの中で、年上の上司の中で、外国の人たちの中で、彼らの声だけを聞き、歩き方や顔に刻まれた皺を見て、私は自分を忘れて周りの人にどんどん同化していく。
だから鏡を見たとき、特に見ようとして見た家の鏡ではなく街中で不意に窓ガラスに映った自分の姿を見たときに、空中に漂っていたところを小さい入れ物に無理矢理引き戻されたような気分になるのです。同化していたつもりの人たちに「女の人は/若い人は/日本人はきっとこうだよね」と言われて距離を感じたりします。彼らの眼には私の性別も年も肌の色も体型も全部最初から映っていて、どんな言葉もその枠組みの中からしか届いていなかったのだと知り愕然とします。
思春期特有の外見に過剰な関心を持つ時期は過ぎましたが、周りが皆自分と同じような服を着ていて毎日年齢も境遇も性別も同じ人としか話していなかったあの頃と比べると、今周りにいる人たちは自分とずいぶん違います。違う人たちに知らず知らずのうちに同化して、そのあとで「そうだ自分はこういう人間だった」と落胆することも多くなりました。
外の人たちと接して世界が広がったのに、私の思考はこれだけ自由になったのに、結局最後はこの体に押し込められてしまう。
ロボットになりたい
個性と記憶
服を着たpepper