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岸政彦 『断片的なものの社会学』

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

社会学界隈の方々のおすすめで購入。

 

断片的なものとは

タイトルにある「断片的なもの」とは、論文などのデータとして使えないという意味らしい。社会のこういう集団にはこういう傾向があります、という説明の材料にならないデータである。
 
著者の罪悪感が印象に残った。
 
私たち社会学者は、仕事として他人の語りを分析しなければならない。それは要するに、そうした暴力と無縁ではいられない。

社会の傾向を述べる自らの仕事を、「暴力」と表現する。他人の言葉を聞いて、その人生に興味をもったところからスタートしたのだと思う。しかし仕事になってしまうと、まず成果を出すために自分のストーリーのなかにどうやったら埋め込めるかを四六時中考えていないといけないのかもしれない。

結局どの論文にも報告書にも使えなかったけれども。

この人の話はあの論文に当てはまりそうだとか、この仮説を裏付けられそうだとか。もし私が社会学をやったら、知らず知らずのうちに自分の仮説に寄せるようにインタビューの方向を作ってしまいそうだ。自然科学だったら不正にはなっても傷つく人間はいないけれど、社会科学の場合は誰かへの暴力になってしまうかもしれない。著者の語り口は優しく明るい。もともと人間一般に興味のある人が選ぶ職業なのだろう。自分が好きで調べていたものに気づいたら暴力をふるっているかもしれないなんて、社会学者は勇気のいる仕事だと思う。

文章について

評判の通りとても読みやすく、読んでいて楽しかった。幾つか文章について思ったことがあるのでついでに書いておく。

わかりやすさの理由

「他人の語り」をテーマにしている本であるため、具体的なエピソードがまず最初に来る。誰にでも理解しやすい日常的なエピソードを解釈の入らない形で長く語った後で、数行著者の解釈にあたる抽象論がすっと差し込まれる。

文章を書く上で、抽象論でつらつらと書き連ねるのは結構楽なことだ。これとかあれとか指示形容詞をたくさん使って言いたいことだけを固めていく。

抽象的な文章は、元々おなじようなことを考えていた人には問題がなく入っていくけれど、誰にでも開かれた文章では無い。また、常に頭を使わなくてはいけないので読んでいて疲れる。対して具体的なエピソードがルポルタージュのように散りばめられた文章の場合、ルポの部分はただ事実として受け止めればよいので、読んでいて「気を抜ける部分」が出てくる。そして具体的なエピソードが読んでいる人全員に共通の前提として提示されるので、その後の抽象論を誰でも理解出来る。これが読みやすいと感じる理由なのだろう。

しかし、具体的なエピソードを書くということは、上に書いた通り解釈という暴力につながる危険性をはらんでいる。文章中に名指しで(本名は出てこないが特定可能なエピソードと共に)他人を登場させるということはとても怖い。

自分にインスピレーションを与えてくれた人を守るか、読んでくれる人に優しい文章にするか。この二つに板挟みなのだと思う。

 

 

ロボットになりたい

歩きながら考え事をしていると、建物の窓に映った自分を見てびっくりすることがあります。

特に抽象的な思考をしてたり、科学文明の行く末や、VR技術の面白い使い道を考えていたりすると衝撃が大きいです。なぜびっくりするのかというと、そういうことを考えているときは自分の性別と年齢、日本人であること、住んでいるところ、会社勤めをしていることなんか全部すっかり忘れているからです。

自分が見えないということ

私たちは普段、この体を通じてしか人とコミュニケーションを取ることはできません。自分の考えた言葉はこの声を通ってしか目の前の人に届かないし、笑顔もしかめっ面もこの顔でしか作ることはできない。ちょっとした仕草や歩き方を通じても、体は周りの人に色々な情報を伝え続けています。

しかしその情報を唯一受けとることが出来ない人がいます。それは私自身です。

みんなで集まって話しているときも、私の表情や仕草を私だけが見ることができない。私の声も顔も、生まれてから私が意識して作ってきたものではないし、本当は周りにどう聞こえ、見えているのかなんてわからない。自分の歩き方が他人からどう見えるのかなんて知らない。自分の性別や年を聞かれて間違えることなんて絶対にないけれど、常に意識し続けているわけでもない。みんなの眼には常に映っているのに、私だけがその事を忘れている。そうして男の人のグループの中で、年上の上司の中で、外国の人たちの中で、彼らの声だけを聞き、歩き方や顔に刻まれた皺を見て、私は自分を忘れて周りの人にどんどん同化していく。

だから鏡を見たとき、特に見ようとして見た家の鏡ではなく街中で不意に窓ガラスに映った自分の姿を見たときに、空中に漂っていたところを小さい入れ物に無理矢理引き戻されたような気分になるのです。同化していたつもりの人たちに「女の人は/若い人は/日本人はきっとこうだよね」と言われて距離を感じたりします。彼らの眼には私の性別も年も肌の色も体型も全部最初から映っていて、どんな言葉もその枠組みの中からしか届いていなかったのだと知り愕然とします。

思春期特有の外見に過剰な関心を持つ時期は過ぎましたが、周りが皆自分と同じような服を着ていて毎日年齢も境遇も性別も同じ人としか話していなかったあの頃と比べると、今周りにいる人たちは自分とずいぶん違います。違う人たちに知らず知らずのうちに同化して、そのあとで「そうだ自分はこういう人間だった」と落胆することも多くなりました。

外の人たちと接して世界が広がったのに、私の思考はこれだけ自由になったのに、結局最後はこの体に押し込められてしまう。

ロボットになりたい

5月、ソフトバンクのロボットpepperに触れる機会がいろいろありました。秋葉原アルデバラン・アトリエに行って自分のPCからpepperを操って喋らせたり、ハッカソン(開発コンテストのようなもの)に出てpepperのアプリケーションを作ったり。
 

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pepperの開発を教えてもらえるアルデバラン・アトリエ秋葉原

 

小学5年生の男の子と同じ身長と体重だというそのロボットは、同じ顔、体を持っています。何十体ものpepperがいても全部同じで、違いがわかりません。たくさんのpepperに囲まれながら、私たちもこんな風になればいいのかなと考えていました。みんなpepperになったら、中身のアプリケーションが起動するまで何もわからない。
そうすれば、自分が発信する意図のない情報から、性別とか年齢の枠組みに当てはめられて、意図とは異なって意見を解釈されることもないのではないか。「若い人にはまだわからないよ」と言われることはあっても「新しいpepperにはまだわからないよ」なんて言われることはないはず。「黙っていると怖い」とかpepperは言われ無いんだろう…イベントのゲストだったmirai capsuleさんのpepperによる第九の合唱はとても美しくて、pepperになりたいという気持ちが高まりました。
 

個性と記憶

しかし、実際に開発企画を考える段になると、頭に浮かぶのはpepperをどう個性的にするかということばかりでした。お店に入るpepperが地方によって方言を喋ったら楽しいよねとか、店舗によって別の服を着せようとか。
みんな同じpepperを見ていて、どうしてもそれぞれ違った特徴を持っていてほしい、と思ってしまう。
 

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服を着たpepper

 

もし人間がpepperみたいになってしまったら、他人のちょっとした仕草や表情に心を動かされることは無くなってしまいます。街で懐かしい香りをかいで昔を思い出すことも無いし、親しい人の声を電話口で聞いて一気に気持ちが落ち着いたりすることも無いでしょう。他人が持つそれぞれ違った特徴は、たくさんの思い出を記録するために必要なのです。そして私が持つ様々な特徴や属性にも、周りの人の思い出がたくさん詰まっています。
私たちは差を必要としているのではないでしょうか。もちろんそれは差別と偏見を許すものでは無いけれど、差別と偏見を無くすためにみんな同じになるという解決法はあまり良く無い。技術発展で可能になったとしても最終手段であって、できるだけ通りたく無い道です。
 
pepperはすごくかわいいけど、なりたいと思うのは危険な気がします。
 

語学を学ぶ楽しみ

使いもしない言語を勉強することが多いです。学生の頃から気の向くままにドイツ語、フランス語、スペイン語、韓国語などの授業に出たり、自分で文法の本を買って解いたりしていました。現在実用に耐えうるのはぎりぎり英語とフランス語のみという情けない状況ですが、なかなか楽しんで勉強していました。最近は仕事もあり、学生の頃のように気ままに語学を勉強する時間もなくなりましたが、暇を見つけて細々と続けています。

技術発展によって語学を学ぶ必要性なんてなくなる

しかし、最近はGoogle翻訳の精度もみるみる上がってきて、なんだか近いうちにどんな言語も自動翻訳してくれるようになるのではないかと思えてきます。今でも定型文に近いメールなどはほとんど完璧に翻訳してくれますね。

ではなぜ勉強するのか

暇なわけでもないし、仕事で英語以外の語学が必要な訳でもない、技術が発展してどうせすぐに実務上の必要性なんて無くなりそう、このような状況下で、なぜ語学を学ぶのでしょうか。もちろん繰り返してなにかが出来るようになることはそれだけで嬉しいものです。しかしそれ以外に、なにかもっと別の楽しさがあるのではないか?

常に外側にいる語学学習者

そんな疑問を持ちながら、先日来る検定試験のためにせっせと問題集を解いていたところ、とても府に落ちる文章がありました。
語学学習者という存在は現実の場面に参加し演じつつも、どこかでそれをフィルター越しに眺める観客のようなところがあります。(中略) 語学学習者だからこそ体験できるコトバとの関わりや触れあいもまたあるはずです。       「実用フランス語検定試験 2級 傾向と対策 」森田秀二(駿河台出版社)

勉強することがただただ楽しくて、今までに何千時間も費やしてきた英語だって、未だに簡単な英作文のニュアンスにも自信が持てない。きっと死ぬまでネイティブの感覚にたどり着くことは出来ないのでしょう。だからこそ私たち語学学習者だけの楽しみが存在します。

新しい言い回しを覚えたとき、そのフレーズを映画で聞いたときや本の中に見つけたとき、私たちはその文化に触れることができます。ネイティブの分かっている細かいニュアンスは全然理解できていないのかもしれないけれど、観光地にいった旅行者が地元の人は感じることのできない美しさを感じるように、私たちは別の文化に触れることで強い喜びを感じます。

例えSiriがフランス語をペラペラに訳してくれるようになったとしても、単語を覚えて、文法を理解しながら地道に勉強したいなと思えます。日本語を母国語とする私にしか見えないフランス語の世界があるからです。旅行にいくのも楽しいですが、問題集を開いても同じように別の言葉によって作られる世界を覗くことができると思います。

ということで、今後も語学学習はしばらく私の暇な時間を潰してくれそうです。

arduinoでロボット

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arduinoでロボットを作りました。
運転手の目の部分が距離センサーになっているので、障害物を避けてぐるぐる走り回ることができます。かわいい。とてもかわいい。モータうるさいけど。
赤外線センサーでリモコン操作も可能。
 
 
一人暮らしはなかなか寂しいので、ペットでも飼いたいと思ったのですが飽きっぽい自分には生命を預かる資格があるのだろうかとしばらく悩みました。悩んだ結果、ロボット教室に申し込み。大正解でした。かわいいし、忙しいときは電源オフできる。飽きたら改造できる。...素晴らしい!
 

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最初はこのような直立型を考えていました。
 
しかし力士のような体型のこのロボットでは重心を取るのが難しいことが判明、ひっくり返らないように自動車風ロボットに方向転換しました。初めてのロボット製作だったので、電気部分だけで一杯一杯でしたが重心位置や安定性などもちゃんと考えないとロボットは動かないのですね。
父に言ったら「重いものを下に持ってくるのは工作の常識」と言われてしまいました。そういえば小学三年生の時、父に某ペンギンのロボットを作ってもらったのを思い出します。なかなか思い出深いので、それはまた別の記事に。
 
部品
今回は以下の部品を使いました。
さて、上の部品は、実はそれぞれとても簡単なキットのようなものです。例えばマイコンはPCからプログラムを書き込むチップと、USBソケットや各種ピン、必要な抵抗などが全て最初から合わさっています。また、サーボモータはモータとモータを制御する電子基板が一緒になっています。これらの部品は初心者にはとてもありがたいのですが、
  • 高い
  • 大きい
という問題があります。Arduinoなどは自作すると1000円以下で作れるそうです。定価は4000円なのでえらい違いです。サーボも6cm×7cmくらいの大きさがあるため、ロボットが力士化する原因になっています。次は出来るだけ一から作って、もう少し自由なデザインで小さいロボットにしたいなあ。
 
 
毎回わかりやすく教えて頂いたTOKYO HACKER SPACE(

http://www.tokyohackerspace.org/ja

)さんに感謝。中板橋遠かったけど....。
 

BHセミナー ダニエル書 8章レジュメ

ダニエル書

8章あらすじ
 
8.1-12
・ダニエルが見た幻
・ツノの高さが左右違う雄羊が西、北、南をツノでつく
・ツノが1本の雄山羊が西からやってきて雄羊のツノを砕く
・雄山羊のツノが折れ、新たな4本のツノが生える
・4本のうち1本が強大化し、聖所が投げ倒される
 
8.13-14
・聖なる者「夕べと朝が2300回巡ってきたら、聖所の正当性が明らかになる」
 
8.15-26
・ガブリエル「この幻は終末のことである」
・雄羊はメディアとペルシアの王
・雄山羊はギリシア王
・(詩)彼らの王国の終わりに強大な王が出現するが、人の手によらず滅びる
 
8.27
・ダニエルは憔悴し、この幻に脅威を覚える

BHセミナー「アリストテレス読書会」 レジュメ (生成消滅論・2巻第5章)

BHのオンラインセミナー アリストテレスの生成消滅論の読書会用のレジュメです。

2巻第5章の担当です。京大版をまとめました。
 
概要:元素間の転化は円環的である
そのために証明すべきこと
(a) 元素のどれ一つとして他の元素の始源ではないこと
(b) 転化はいずれか一つの元素のところで止まることはできないこと
(c) 転化はいずれか一つの元素で始まって、上方あるいは下方へ無限に直進しえないこと
(京大版より引用)
 
[332a]
自然にある物体の元素は何個か
・生成消滅というのはすでに質が異なる複数の元素の結合(1巻第1章)だから、元素は複数の種類ある
 
[332a 10]
(a) の証明
・例えば火は「熱い空気」ではない
・「転化は反対のものになること」という仮定がある
・仮定に従うと、火から空気への転化は熱いものが反対のものへ転化することによって起こる
・つまり空気は「冷たい空気」になる
・すると「熱い空気」というのは存在できなくなり、矛盾
 
[332a 20]
中間の元素(基体であり、かつ独立した元素)は存在しない
・同様に、「転化は反対のものになること」という仮定に基づく
・中間の元素があるとして、やはりそれらも反対対立のいずれかを伴って火や水になる
・中間の元素が転化して火になったのならば、中間の元素は火の反対の性質(冷たい)をもっていたことになる
・しかし中間の元素が基体ならば、火になってもその性質を保たなければならない
・火は熱いと同時に冷たいということになり矛盾
 
[332a 30]
2巻4章にて証明されたことの復習
・元素は相互に転化する
・変化速度は一定ではない
 
[332b]
元素の数と反対対立の数の関係
反対対立が一対なら、元素は2つ
しかし、観察すると元素は2種類より多そう
それならば反対対立が二対とすると、4C2-2=4より元素は4つ
 
[332b 10]
(b) の証明???
332b 12 「転化の過程は当然止まることになる」
(京大版より引用)
?証明すべきことが既知のものとして扱われている
 
[332b 20]
(c) の証明
・元素は相互転化し合うので、全ての性質はもともと全ての元素に備わっている
(ある反対対立a,a_があったとしたら、全ての元素はそのいずれかを持っている)
・無限に性質があったらどの元素も定まらず生成することができないから、性質は有限
・つまり転化は一定の方向に無限には起こらない
 
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BHセミナー「アリストテレス読書会」 レジュメ (生成消滅論・2巻第1章)

BHのオンラインセミナー アリストテレスの生成消滅論の読書会用のレジュメです。

2巻第1章の担当です。京大版をまとめました。
 
既出のもの
混合、接触、作用と被作用、端的な生成と消滅
 
四元素に対して考察
生成と消滅は感覚されうる物体があるから起こる
感覚されうる物体の基を質量とする
この質量が何か、何種類かについては諸説ある*1
 
反論:アナクシマンドロスのト・アペイロンに対して
四元素とは別に基になる1つの質量がある
それは物体的なものであり、諸属性から離れて存在する
物体的なものは熱と冷、乾と湿の組み合わせからなるはずである
つまり四元素のいずれかであるため、四元素とは別になる
 
反論:プラトンに対して
「あらゆるものの受容者」が存在する
(これは a. 四元素を離れて存在する場のようなもの b. 四元素を生成する基 の両方の意味で解される)
「あらゆるものの受容者」が四元素を離れて存在すると明言していない
プラトンは四元素の生成を説明するときは二種類の三角形を使っていて、全くこれを用いていない
そもそも平面が第一質量っておかしい
 
四元素をさらに分解すると、熱や冷などの反対である性質=反対対立とそれらの性質の基体となる質量となる*2
反対対立の種類、数については別途議論の必要あり

 

*1:四元素の中のどれかか、または別のものか

*2:よって、質量が第1のもの、反対対立が第2のもの、四元素が第3のものとなる